今日もあの日(beta)

何気ない日常とか言ってるうちが華です.

「憧れたものにはなれない」云々

果たして憧れたものにはなれないのか。

「◯◯に憧れる」と言い続けるのは「アイドルと付き合う」と同レベルだと感じている。

ただ、流石にいい年した人間が言う場合に限る。

流石に小さな子の夢に訳知り顔で耳垢を擦りつけるような真似などできようもない。

 

もちろん、憧れることにはいくつかの次元が存在する。いい家庭を築くことに憧れる、年収1000万円以上に憧れる、芸能人に憧れる…etc。きっとそのレベルはそれが簡単に実現できるか否か、で判断できる。憧れの対象が単純なもの・簡単なものなら、何も藪から棒に否定したりしない。ただ、簡単に実現できるものを憧れと呼ぶかと言われれば日常語にはそぐわない。何故なら、それは憧れではなく「近いうちに実現できそうなもの」だから。いい家庭に憧れるのが30歳男性なのか、それとも5歳の男の子なのか。簡単にいえば、憧れなんて言葉をわざわざ使うんだから、その対象は往々にして実現への道のりが遠い場合を指してるに決まってる。

 

では、どうして憧れてるものにはなれないのか。いや、そもそもなれないのか?5年前からずっと憧れてるものにはなれないだろう。それは憧れの円周をぐるぐる回り続けているだけだ。何時まで経っても憧れの中心には向かわない。本当に憧れるなら、その憧れは5年もあれば目標とか、せめて輪郭だけでも見える状態になってるはずだ。そのぐらいなら環境は邪魔しない。なんだったら「年収1000万円 稼ぎ方」でググればいい。問題は目標が見え始めて、自分の現状に思いを巡らせた時だ。長い間自分の中で憧れを飼い殺す内に、既に追いつけないところまで憧れが遠ざかる。自分から逃げたのではなく、憧れへの障壁がどんどん高くなって行ってることに気づかない。

 

きっと、憧れってのは観賞用だ。本気で目指す人は憧れという言葉を使わないのかもしれない。目指してる時点で目標だ。憧れってのは社交辞令だ。憧れられて悪い気のする人はいない。「あなたみたいな人は羨ましいし憧れるけど、私にとって現実的ではない」という事なのかもしれない。いや、理想との距離が遠すぎることに気付いていないのかもしれない。

 

じゃあ、「◯◯先輩に憧れる」はどうだろう。これはわからない。その人になりたいのか、その人みたいになりたいのか。どの時点のその人になりたいのか。その人だって変わっていく。無限の自己を、その人に投影させて満足なんだろうか。自分はどこ行った。おっと、話が脱線している。

 

これじゃ言葉狩りだ。憧れは悪いことじゃない。誰も不幸にならないはずだ。

僕がそう思ってるだけだし、何の試験紙にもならない。

ただ、「憧れたものにはなれない」と思ってる人は意外と多い。意外と。

その理由を、教えて欲しい。