「コンプレックスで人を殴るな」云々
あれ、コンプレックスって何だっけ。
取り敢えず、「劣等コンプレックス」って事でいいか。
コンプレックスを持ってるということそれ自体は、良いも悪いも無い。
コンプレックスがバネになる人もいれば、他人を詰る事にしか使えない人もいる。
前者は個人的に好きなタイプだ。後者は、なんというか非常に残念な感じが漂う。
これは個人的な好みだし、かつ恣意的な二分法だ。
きっと、この2つの境界は微妙だ。
コンプレックスをそれとして理解しているか否か、これに尽きる。
自分のこの劣等感の正体は何だろう、その自問自答がリトマス紙になる。
自問自答が出来てる人には、次の打ち手が自然と見えてくる。コンプレックスがバネになる。
ひたすら他人を詰ってる人は、コンプレックスと仲良くしてるだけだ。コンプレックスを乗り越えるものと認識していない。
こんなことを書いてるのは、コンプレックス持ちが怖いからだ。
いつ自分の領域を汚されかねないかわからない。それはそれは理不尽に。
教養のある人間に向かって、平気で「実家が金持ちなんだろうな」と呟く。
「中学校の金持ちの同期が堕落してすごくいい気分」と宣う。
因果関係が狂うタイプ、経時的に認識できないタイプ。そして大量の亜種。
何にせよコンプレックスで他人を殴ることしか出来ないような奴は、嫌いだ。
こうして、「あぁ、自分の努力が変に解釈されるのが嫌なんだな」と思い至る。
これは誰でもそうだろう。後出しじゃんけんに勝てる人はいない。
ただこれは、行為のレベルで競ってるだけに過ぎない。努力したかどうかは0/1。
努力の結果に関しては何も語っていない。こういうと綺麗事だが。
純粋な、不正なしの結果が武器になれば、折れない。結果が全て語る。
そういったノイズを掻き消すのは常に結果だし、そうなると努力は前提となる。
(努力すれば成功するとは限らない、というのが味わい深い所でもありつつ。)
この土日を寝こんで過ごしてしまってこういう事を書いてるのは、ギャグである。
だが、ギャグであるとともに所信表明でもある。
願わくば全てのコンプレックスが浄化されん事を。(消えて欲しいわけでは無く。)