今日もあの日(beta)

何気ない日常とか言ってるうちが華です.

「生きることはバラで飾られねばならない。」ことに関して

暇と退屈の倫理学 (著)國分功一郎

の読書録になります。

この本の存在を知ったのは、以下リンクから。

この本の名前を初めて聞いた人は、時間のあるときに本屋で探して序章だけパラパラと読んでみて欲しい。もしあなたにそういう時間があるなら、この本を買いたくなるだろう。そんな暇が無い人、この本を読むべき人は紛れもなく”あなた”だ。それと、先に言っておくと上記に挙げたリンクは読んだ後に踏む方が良い。特にHoward Hoaxさんのブログ(リスト2番目)は本書を読んだのであれば読んだほうがいい。

 

実は前回のエントリ(参照:人工知能と夢の先)のモリスに依る最後一文、すなわち今回のタイトルは本書を読んでいて知ったものだ。本書は人間なら誰もが対面する”暇”と”退屈”についての歴史的な考察、そして”暇と退屈”にどう向き合うか、というのがメインテーマだ。興味深い箇所を断片的に触れていくことにする。

僕も勿論そうだが、必ず暇な時間というものは付いて回る。でも、あまりに暇な時間が多くなると落ち着かないし、振り返る暇が無いほど忙しい生活というのも落ち着かない。大した不自由も無いのに幸せな生活を送っている実感がないのはどうしてだろう…?

 

まず重要なのは、「人は退屈を嫌う」ということだ。また、その退屈な時間に自分の「好きなこと」をしているという考えは誤りである。消費者の好きなことに関して言えば、これは豊かさの追求の結果に関係していると言える。人は豊かさを目指して努力し、その結果生活に余裕(金銭的余裕・時間的余裕)が生まれた。そしてその余裕は、願いつつも叶わなかった「好きなこと」をするために使われるはずだった。しかし、現代社会において消費者の「好きなこと」は供給者によって用意されている。つまり、人間の主体性が前もって準備されている。好きなことをするのでなく、広告など与えられたモノの中から自分の好みに合うものを選択しているに過ぎない。すると、こういう疑問が出てくる。「そもそも、余裕を得た暁に叶えたい何かなど持っていたのか?」…でも人は退屈を嫌うから、与えられた楽しみに身を投じる。

 

では、どうして人は退屈を嫌うのか?パスカルによれば、退屈するということはそれだけで不幸の源泉となる。部屋でじっとしてられない、やることがなくてソワソワする…たったこれだけのことで不幸なわけだ。だから、人は気晴らしを求める。挙句、<欲望の対象>と<欲望の原因>を取り違える。ギャンブルに熱中する人の目的お金儲けではなく、そこに没頭することなのだ。そしてその気晴らしは熱中できる物でなければならない。そうでないと、自分を騙しているという事実に気付いてしまうからだ。また、気晴らしを求める人間は苦しみを求めている事に他ならないとされている、気晴らしに熱中するためには、何らかの負の要素が必要だからだ。鋼の錬金術師でいうところの「対価」という事だろう。

 

以上は本書のごくごく序盤で触れられる内容である。では我々の生きる消費社会では、具体的に暇と退屈が入り込んでくるのだろう。社会人というものは、働いているイメージしか僕にはない。「お仕事楽しい!」なんて余程の変わり者でない限り至れない境地ではないかと思うのだけど、全国的にはそんな声ばかり聞こえてくる。もし「お仕事楽しい!」が真なら、彼らはずっと働いていればいいので暇や退屈なんかには関係ないんじゃ?僕はこういう疑問を持っていたのだけど、ここに関してもボードリヤールの思想を交えて非常に興味深いことが書かれている。

 

ここの結論から言ってしまえば、「労働までもが消費の対象になっている」。一般的に消費社会というのは物に溢れていると思われるが、実はその逆である。物が全然ないのだ。というのも、商品が消費者の必要によってではなく、生産者の都合で供給される物であるからだ。また、消費社会としては「浪費」されては困る。人々が浪費をしようものなら、人はとっさに満足してしまう。満足されては消費が鈍ってしまう。消費社会とは、人々が浪費するのを妨げる、ひいては人の満足を妨げる社会なのだ。そしてこの消費の論理は明らかに労働にも適応されていく。労働までもが消費の対象になっている、つまり労働は今や忙しさという価値を消費する行為になっている。その結果、余暇までも消費の対象になっている。余暇というものは自由な時間ではなく、何かをしていなければならないのが余暇という時間になってしまっているのだ。

 

これは自信がないが、「お仕事楽しい!」というのは社会という供給者によって用意された物なのかもしれないとさえ考えてしまう。本当に好きなことを仕事にできるならそれに越したことは無いが、スキルのない人間がそんなことを出来ないのは実は知っている。就職活動の時点で、「〇〇が好きだから、あの業界に行きたい!」と言いつつ、実際に企業に入ったところで好きなことに没頭できるわけがないのは皆知っている。広告が大好きだから広告業界に行ったところで、実際に大好きな広告ばかりを作ったり売ったり出来るのはほんの一握りの人間だ。じゃあほんの一握りの人間になればいいじゃないかって言われても「そんなこと言ってるから一握りになれないんだよ」と言い返すことしか出来ない。労働というものが、気晴らしと言うものに凄く似ている気がしてならないのだ。仮に何かの間違いで気晴らしだったとしたら、そっちの方がたちが悪い。何故なら、その気晴らしを強要されることで死に至る人が何人もいるからだ。

 

話を変な方向に逸らしてしまったが、ここまで挙げた部分は全て問題提起の部分であり、本書の核心部分にはあまり触れていない(人は退屈が嫌いというのは最重要だが)。暇と退屈について考えてみるということは、今後の人生全てについて考えることに通じている。これだけは間違いない。何故なら、今後どうやって生きようが暇と退屈に関わらない人というのは存在しないから。僕個人としては読んでいて無性に怖くなってしまった。今恐らく人生の岐路に立っている大学生にこそこの本を読んで、色々と感じ取ってほしい。特に、大学生は今後の進路に関して一つの「決断」をしなければならない。それは合理的なあて推量に依る「判断」とはある意味独立している。そして、決断は一度してしまったからといってそこで終わりではない。今恐らくそうした状況にある人、これから来る人、既に大きな決断をしてマゾヒズム的な努力を重ねている人…きっと読んでみて損することはない。