2012年ボカロ10自選がようやく纏まりました。
2013年が始まって既に1ヶ月以上経過しているわけですが、ようやく纏まりました。
再生数やマイリスト数などを考慮せず、とにかく自分の好きな曲・よく聞いた曲を選出しています。流石にマイリストだけ貼りつけて終了では味気ないので、それぞれの楽曲に一言添えて置きましょうか。
以下では便宜上番号を振りますが、何らかの序列を示すものでは決してありません。また、これも便宜上ですが、敬称を略してあります(敬称をつけて美感を損なっては本末転倒な気もするので)。念のため。
視聴時はコメントを非表示にすることを強く推奨致します。
1.【初音ミク】 ダブルアンコール 【オリジナル】
作詞作曲:シメサバツイスターズ
個人的なイメージかもしれませんが、シメサバツイスターズと言えば重厚なサウンドでゴリゴリやっているイメージが強かっただけに、この曲にはやられました。
変拍子の曲って、いかに不快感を与えずにテクニカルな感じを出すかが肝の一つだと思うんですが、この楽曲は聞いていて心地よかったです。
2.【GUMI】 Notebook 【オリジナル!】
作詞作曲:buzzG、画像動画:モゲラッタ…etc
ド安定。総合して凄く良い楽曲だと思うのですが、特に歌詞が気に入りました。
こういうメッセージを人に伝えられるような、立派な人間になりたいと強く思わせてくれる楽曲です。
言葉の力って偉大だよね。
3.【ミク リン レン ルカ KAITO MEIKO GUMI がくぽ】ゆめのかたち【オリジナル】
作詞作曲:ふわりP、画像動画:ねこむら
最初に聞いた時は、鳥肌が立ちました。なんというか圧倒感に気圧されました。
タグに「卒業式で歌えるレベル」とありましたが、まさにそんな感じ。すごい。
明るい旅立ちに、胸を張って。是非いかがでしょうか。
4.初音ミクオリジナル曲「カミサマの宇宙アメ」
作詞作曲:キツヅエ
貴重なChiptune×VOCALOID楽曲。わぁいChiptune!!
少し暗い歌詞ですが、聞いてるだけでウキウキしちゃうのは僕だけでしょうか。
画像のなんとも言えないユルさも要チェック。
これ聞きながら洗濯物干したら気持ちいいだろうなぁ。
5.【初音ミク】星降る夜 世界の中で【オリジナル曲PV付】
作詞作曲:ごまだれP、動画:このみ
混じりっけなしの賛美の言葉を送りたいです。いや、ほんとに素晴らしいとしか言い様がなかった。
なんというか、普通のVOCALOID楽曲には無い「透明感」みたいなものを感じます。
是非聞いて欲しいです。
6.【鏡音リン】レアノ【オリジナル】
作詞作曲画像:ピノキオP
聴き終わった後にタイトルを見返して、惚れ込みました。上手い、上手すぎる。
繊細な感性で練られた歌詞に、大胆で少し荒削りなサウンドがどっかり乗っていて、愉快です。
レンの声が所々ぶら下がり気味になるのが、いい味を出してます。
7.【初音ミク】絵描きさん【オリジナル曲】
作詞作曲:黒田亜津、画像:pen
寝る前に聞きたい曲を探していて、ばったり出くわした一曲。
絵の具の匂いを想像するのが楽しいので、今でも絵の具の匂いは嗅がずにいます。
8.【初音ミク】 Luster of Sounds 【オリジナル曲】
作詞作曲:proactive、画像:灯
再生数と楽曲のできは相関しないことを確認させてくれる一曲。
コメントに「着地感がない絶妙な不安定感」とありましたので、これを援用します。
悔しい。これ以上にしっくり来る表現が浮かばない…。
9.【GUMI】くじらの街【オリジナル】
作詞作曲動画:村人P、MIXなど:Studio Moko、画像:あをこ
これはいいギターロックですね。はい復唱。
中盤やたらギターが主張してきたりと、少し不安定なところもありますが、そんなの無問題。
青春群像のような、おとぎ話のような、そんなよくわからなさが心地よさに変わっていくでしょう。
10.【GUMI】─white book story─【オリジナル曲】
作詞作曲:vataco(バタパンP)
実は同時アップロードの歌ってみた動画ばかり聴いていたので、入れるか少し迷いました。
ただ、詩のセンスが絶妙なのと、VOCALOID版もやはり好きなので入れることに。
音のメリハリ、歌詞の儚さなど、要素を挙げていくとマッチしなそうなものが綺麗に纏まってます。すげぇ。
これにて曲紹介は終わりますが、まぁ何というかお暇なときに聞いてみて下さい。
「VOCALOIDってどうもね…」という人もいるかと思います。気持ちはよく分かる。
ただ、VOCALOIDはまだ人の代わりにはなれない、楽器として見ている人も多いです。
そのためか、VOCALOIDは着々とその懐を広めています。今日も新たなジャンルが生まれているかも。
僕はそんな臨場感が好きなので、お裾分けのつもりで記事を書きました。
もしこの記事を読んでVOCALOIDに興味を持ってくれた人がいたならば幸いです。
僕らの何ヶ月か戦争
大学院入試と学士論文が終わって、ようやく、何ヶ月か続いたせかせかした日々が終わりました。終わりましたとも。これで思い残すこと無く卒業できます。嘘です。いや、卒業はしますが、思い残すことだらけです。と言うか、思い残すこと無く卒業する大学生なんていないだろ。だって働きたくないだろ。え?働きたい?じゃあ奢ってくれ。本貸してあげるから。
来年から大学院へ進学するわけですが、まだ金銭を稼ぐ身分になるわけではないので、ハメを外して遊ぶ気にならないと言うのが本音です。加えて、好きな本をゆったり読める最後の時期になるかもしれないので、飲んで騒いでわっはっはーと言うよりは、落ち着いて色々整理して行きたいです。とは言え、「勉強してないと落ち着かない!!!」みたいな、動いてないと死んじゃうマグロみたいになるのも御免被りたいので、イージーゴーイングな暮らしをしたいです。静かで幸せな暮らしがしたいです。ちなみに友達には「余命2ヶ月」って言われました。
いや、と言うよりいわゆる「お勉強」ばっかりやってても仕方ないですよ。一部の資格などを除けば、お勉強オンリーなんてある意味希少性無いですから。よく「努力できるのも才能」と言いますが、それは分析者の目線で語られるべき言葉であって、日々を生きる小市民には毒にも薬にもならんと僕は思います。そういう意味で「うだうだ言ってないでやれ」と言うのは、アドバイスとして素晴らしいですね。言う側は何も考えないでこれを言ってればokだし。おいおい言われた側は何をすればいいんだよって声も聞こえてきそうですが、このアドバイスが出てくる時点で何らか別の指示や示唆があるのが普通なので問題ないでしょう。問題ないですよね?あれ?そう言えば俺って大学院に進学するんじゃなかったっけ…
話は変わって、無事学士論文の提出も完了しました。タイトルは「何が企業の発明を秘匿化させるか?」です。秘匿化って英語でsecrecyなんですよ。エロいですね。いや英語で書けるわけないので本文中にsecrecyなんて単語が出てきた試しはありませんが。具体的な内容に関しては、slideshareにスライドをアップしたのでそちらをご参照下さい(※こちら→http://www.slideshare.net/Kiyamaxa/ss-16318952)。本文は公開するための処理が面倒くさいのでナシでお願いします。でもやっぱり、特許って説明するの難しいですね。どういう仕組みかはさすがにわかるんですけど。その辺りを復習というか、学び直すために↓の本を読みました。
- 作者: マーク・ブラキシル,ラルフ・エッカート,村井 章子
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2010/10/15
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 7回
- この商品を含むブログ (5件) を見る
初学者というか、興味がある人にはいいかもしれないですね、コレ。と言っても最初の何章かだけですが。特許がビジネスの世界でどういう風に扱われているか明瞭に描かれていると思います。あと事例がいっぱいあって面白いんですが、如何せん読んでてダレます。中盤からは最近話題のオープン・イノベーションの話などが始まりますが、ゴローちゃんよろしく「コラボレーション戦略!そういうのもあるのか」位に留めておくべきです。だって概念的によくわからんので。昨今時代はオープン的な風潮があるみたいですが、僕は流れに乗りながら積極的に抗っていきたいですね。この辺りは別に記事を書く予定です(予定は未定という言葉もあります)。
あと最近読んで面白かったなぁと思うのは、石井(2005)「独創的な商品開発を担う研究者・技術者の研究」です(http://www.nistep.go.jp/achiev/ftx/jpn/dis038j/pdf/dis038j.pdf)。いくつか事例があって、どれも読んでるだけでロマン溢れる感じがして面白いのですが、特にAIBOの事例は面白いですね。癒しのコンピューターって何だよ、頭おかしいのかと思ってたらAIBOになってるんですもん。頭おかしいのって大事ですね。いや、無論こういう結論のペーパーでは無いですが。
うだうだ駄文を書いてるだけで時間が経っていく感じ、たまらないですね。時間の浪費なんて貴重な体験、もう今しかできないですよ大学生の皆さん。いや、時間の浪費をし続けると、人生も浪費してしまうかもしれない。さすがにそこまでやる勇気はないので、ストイックに生きていきます。
「憧れたものにはなれない」云々
果たして憧れたものにはなれないのか。
「◯◯に憧れる」と言い続けるのは「アイドルと付き合う」と同レベルだと感じている。
ただ、流石にいい年した人間が言う場合に限る。
流石に小さな子の夢に訳知り顔で耳垢を擦りつけるような真似などできようもない。
もちろん、憧れることにはいくつかの次元が存在する。いい家庭を築くことに憧れる、年収1000万円以上に憧れる、芸能人に憧れる…etc。きっとそのレベルはそれが簡単に実現できるか否か、で判断できる。憧れの対象が単純なもの・簡単なものなら、何も藪から棒に否定したりしない。ただ、簡単に実現できるものを憧れと呼ぶかと言われれば日常語にはそぐわない。何故なら、それは憧れではなく「近いうちに実現できそうなもの」だから。いい家庭に憧れるのが30歳男性なのか、それとも5歳の男の子なのか。簡単にいえば、憧れなんて言葉をわざわざ使うんだから、その対象は往々にして実現への道のりが遠い場合を指してるに決まってる。
では、どうして憧れてるものにはなれないのか。いや、そもそもなれないのか?5年前からずっと憧れてるものにはなれないだろう。それは憧れの円周をぐるぐる回り続けているだけだ。何時まで経っても憧れの中心には向かわない。本当に憧れるなら、その憧れは5年もあれば目標とか、せめて輪郭だけでも見える状態になってるはずだ。そのぐらいなら環境は邪魔しない。なんだったら「年収1000万円 稼ぎ方」でググればいい。問題は目標が見え始めて、自分の現状に思いを巡らせた時だ。長い間自分の中で憧れを飼い殺す内に、既に追いつけないところまで憧れが遠ざかる。自分から逃げたのではなく、憧れへの障壁がどんどん高くなって行ってることに気づかない。
きっと、憧れってのは観賞用だ。本気で目指す人は憧れという言葉を使わないのかもしれない。目指してる時点で目標だ。憧れってのは社交辞令だ。憧れられて悪い気のする人はいない。「あなたみたいな人は羨ましいし憧れるけど、私にとって現実的ではない」という事なのかもしれない。いや、理想との距離が遠すぎることに気付いていないのかもしれない。
じゃあ、「◯◯先輩に憧れる」はどうだろう。これはわからない。その人になりたいのか、その人みたいになりたいのか。どの時点のその人になりたいのか。その人だって変わっていく。無限の自己を、その人に投影させて満足なんだろうか。自分はどこ行った。おっと、話が脱線している。
これじゃ言葉狩りだ。憧れは悪いことじゃない。誰も不幸にならないはずだ。
僕がそう思ってるだけだし、何の試験紙にもならない。
ただ、「憧れたものにはなれない」と思ってる人は意外と多い。意外と。
その理由を、教えて欲しい。
「コンプレックスで人を殴るな」云々
あれ、コンプレックスって何だっけ。
取り敢えず、「劣等コンプレックス」って事でいいか。
コンプレックスを持ってるということそれ自体は、良いも悪いも無い。
コンプレックスがバネになる人もいれば、他人を詰る事にしか使えない人もいる。
前者は個人的に好きなタイプだ。後者は、なんというか非常に残念な感じが漂う。
これは個人的な好みだし、かつ恣意的な二分法だ。
きっと、この2つの境界は微妙だ。
コンプレックスをそれとして理解しているか否か、これに尽きる。
自分のこの劣等感の正体は何だろう、その自問自答がリトマス紙になる。
自問自答が出来てる人には、次の打ち手が自然と見えてくる。コンプレックスがバネになる。
ひたすら他人を詰ってる人は、コンプレックスと仲良くしてるだけだ。コンプレックスを乗り越えるものと認識していない。
こんなことを書いてるのは、コンプレックス持ちが怖いからだ。
いつ自分の領域を汚されかねないかわからない。それはそれは理不尽に。
教養のある人間に向かって、平気で「実家が金持ちなんだろうな」と呟く。
「中学校の金持ちの同期が堕落してすごくいい気分」と宣う。
因果関係が狂うタイプ、経時的に認識できないタイプ。そして大量の亜種。
何にせよコンプレックスで他人を殴ることしか出来ないような奴は、嫌いだ。
こうして、「あぁ、自分の努力が変に解釈されるのが嫌なんだな」と思い至る。
これは誰でもそうだろう。後出しじゃんけんに勝てる人はいない。
ただこれは、行為のレベルで競ってるだけに過ぎない。努力したかどうかは0/1。
努力の結果に関しては何も語っていない。こういうと綺麗事だが。
純粋な、不正なしの結果が武器になれば、折れない。結果が全て語る。
そういったノイズを掻き消すのは常に結果だし、そうなると努力は前提となる。
(努力すれば成功するとは限らない、というのが味わい深い所でもありつつ。)
この土日を寝こんで過ごしてしまってこういう事を書いてるのは、ギャグである。
だが、ギャグであるとともに所信表明でもある。
願わくば全てのコンプレックスが浄化されん事を。(消えて欲しいわけでは無く。)
「生きることはバラで飾られねばならない。」ことに関して
暇と退屈の倫理学 (著)國分功一郎
の読書録になります。
この本の存在を知ったのは、以下リンクから。
この本の名前を初めて聞いた人は、時間のあるときに本屋で探して序章だけパラパラと読んでみて欲しい。もしあなたにそういう時間があるなら、この本を買いたくなるだろう。そんな暇が無い人、この本を読むべき人は紛れもなく”あなた”だ。それと、先に言っておくと上記に挙げたリンクは読んだ後に踏む方が良い。特にHoward Hoaxさんのブログ(リスト2番目)は本書を読んだのであれば読んだほうがいい。
実は前回のエントリ(参照:人工知能と夢の先)のモリスに依る最後一文、すなわち今回のタイトルは本書を読んでいて知ったものだ。本書は人間なら誰もが対面する”暇”と”退屈”についての歴史的な考察、そして”暇と退屈”にどう向き合うか、というのがメインテーマだ。興味深い箇所を断片的に触れていくことにする。
僕も勿論そうだが、必ず暇な時間というものは付いて回る。でも、あまりに暇な時間が多くなると落ち着かないし、振り返る暇が無いほど忙しい生活というのも落ち着かない。大した不自由も無いのに幸せな生活を送っている実感がないのはどうしてだろう…?
まず重要なのは、「人は退屈を嫌う」ということだ。また、その退屈な時間に自分の「好きなこと」をしているという考えは誤りである。消費者の好きなことに関して言えば、これは豊かさの追求の結果に関係していると言える。人は豊かさを目指して努力し、その結果生活に余裕(金銭的余裕・時間的余裕)が生まれた。そしてその余裕は、願いつつも叶わなかった「好きなこと」をするために使われるはずだった。しかし、現代社会において消費者の「好きなこと」は供給者によって用意されている。つまり、人間の主体性が前もって準備されている。好きなことをするのでなく、広告など与えられたモノの中から自分の好みに合うものを選択しているに過ぎない。すると、こういう疑問が出てくる。「そもそも、余裕を得た暁に叶えたい何かなど持っていたのか?」…でも人は退屈を嫌うから、与えられた楽しみに身を投じる。
では、どうして人は退屈を嫌うのか?パスカルによれば、退屈するということはそれだけで不幸の源泉となる。部屋でじっとしてられない、やることがなくてソワソワする…たったこれだけのことで不幸なわけだ。だから、人は気晴らしを求める。挙句、<欲望の対象>と<欲望の原因>を取り違える。ギャンブルに熱中する人の目的お金儲けではなく、そこに没頭することなのだ。そしてその気晴らしは熱中できる物でなければならない。そうでないと、自分を騙しているという事実に気付いてしまうからだ。また、気晴らしを求める人間は苦しみを求めている事に他ならないとされている、気晴らしに熱中するためには、何らかの負の要素が必要だからだ。鋼の錬金術師でいうところの「対価」という事だろう。
以上は本書のごくごく序盤で触れられる内容である。では我々の生きる消費社会では、具体的に暇と退屈が入り込んでくるのだろう。社会人というものは、働いているイメージしか僕にはない。「お仕事楽しい!」なんて余程の変わり者でない限り至れない境地ではないかと思うのだけど、全国的にはそんな声ばかり聞こえてくる。もし「お仕事楽しい!」が真なら、彼らはずっと働いていればいいので暇や退屈なんかには関係ないんじゃ?僕はこういう疑問を持っていたのだけど、ここに関してもボードリヤールの思想を交えて非常に興味深いことが書かれている。
ここの結論から言ってしまえば、「労働までもが消費の対象になっている」。一般的に消費社会というのは物に溢れていると思われるが、実はその逆である。物が全然ないのだ。というのも、商品が消費者の必要によってではなく、生産者の都合で供給される物であるからだ。また、消費社会としては「浪費」されては困る。人々が浪費をしようものなら、人はとっさに満足してしまう。満足されては消費が鈍ってしまう。消費社会とは、人々が浪費するのを妨げる、ひいては人の満足を妨げる社会なのだ。そしてこの消費の論理は明らかに労働にも適応されていく。労働までもが消費の対象になっている、つまり労働は今や忙しさという価値を消費する行為になっている。その結果、余暇までも消費の対象になっている。余暇というものは自由な時間ではなく、何かをしていなければならないのが余暇という時間になってしまっているのだ。
これは自信がないが、「お仕事楽しい!」というのは社会という供給者によって用意された物なのかもしれないとさえ考えてしまう。本当に好きなことを仕事にできるならそれに越したことは無いが、スキルのない人間がそんなことを出来ないのは実は知っている。就職活動の時点で、「〇〇が好きだから、あの業界に行きたい!」と言いつつ、実際に企業に入ったところで好きなことに没頭できるわけがないのは皆知っている。広告が大好きだから広告業界に行ったところで、実際に大好きな広告ばかりを作ったり売ったり出来るのはほんの一握りの人間だ。じゃあほんの一握りの人間になればいいじゃないかって言われても「そんなこと言ってるから一握りになれないんだよ」と言い返すことしか出来ない。労働というものが、気晴らしと言うものに凄く似ている気がしてならないのだ。仮に何かの間違いで気晴らしだったとしたら、そっちの方がたちが悪い。何故なら、その気晴らしを強要されることで死に至る人が何人もいるからだ。
話を変な方向に逸らしてしまったが、ここまで挙げた部分は全て問題提起の部分であり、本書の核心部分にはあまり触れていない(人は退屈が嫌いというのは最重要だが)。暇と退屈について考えてみるということは、今後の人生全てについて考えることに通じている。これだけは間違いない。何故なら、今後どうやって生きようが暇と退屈に関わらない人というのは存在しないから。僕個人としては読んでいて無性に怖くなってしまった。今恐らく人生の岐路に立っている大学生にこそこの本を読んで、色々と感じ取ってほしい。特に、大学生は今後の進路に関して一つの「決断」をしなければならない。それは合理的なあて推量に依る「判断」とはある意味独立している。そして、決断は一度してしまったからといってそこで終わりではない。今恐らくそうした状況にある人、これから来る人、既に大きな決断をしてマゾヒズム的な努力を重ねている人…きっと読んでみて損することはない。
人工知能とクイズ王の夢の先
IBM 奇跡の”ワトソン”プロジェクト:人工知能はクイズ王の夢を見る
これの読書録。
IBMの”ディープブルー”が1997年にチェスの世界チャンピオンを破った時、僕はまだ7歳だった。当時の僕はそんなことは知る由もなく、この事を知ったのは中学校に上がった頃だったと思う。チェスのルールは未だに知らないけれど、その時ですら”コンピュータが人間に勝った”というのは僕にとって衝撃だった。しかもコレは後で知ったことだが、ディープブルーはチェスそのものを教えてもらっていない。そして2011年2月16日、同じIBMの”ワトソン”がジョパディ(下記)でグランドチャンピオン2名を打ち破った。
IBM 質問応答システム“ワトソン”がクイズ番組に挑戦! - Japan
15テラバイトのメモリ・2880個のCPU・2億ページ分のデータを駆使して史上最強のクイズ王と対戦中のIBM製スーパーコンピューター「WATSON」とは?
この本は、その”ワトソン”の開発経緯からグランドチャンピオンとの対決までの一連の流れについて記述されているが、副題”人工知能はクイズ王の夢をみる”とある通り、人工知能を始めとする人間と機械の共存についても触れられている。
ジョパディについて触れておくと、単純にいえば賞金付きクイズゲームである。
このゲームでコンピュータが勝つためには…
- 問題に正解すること
- 戦略的に賭ける金額を決定できること
の2つが必要となる。物凄く簡略して言えば、まさに”人間的な”技能が求められる。と言うのも、問題に正解するためには問題文を理解しなければならず、そこには当然コンピュータが理解しにくいニュアンスなども含まれる。しかも、回答の時は「~~とは何ですか?」と質問の形式で返さねばならない。そう、デイビッド・フェルーチを初めとしたチームは”人間の言語と知識を扱える機械”を作りたかった。それも高い水準で。
当然最初はトンチンカンな答えも返したりして開発陣の頭を悩ませるのだが(技術的な話は割愛)、性能が上がっていくにつれて別の問題が発生する。当初は技術的な挑戦だったのだが、当然多額の資本を投下して、尚且つジョパディに出演して大衆の目に触れるという事情があったのだから、それは最早技術的な挑戦だけで終わらなかった。それは”一人(一体)のパフォーマーを創り上げるという挑戦”へと変化していった。ジョパディ1回の挑戦で今後のIBMの業績が大きく左右される。ワトソンはIBMブランドの全てを背負うことになった。
超高速マシンにはロマンがある。書中ではレシートにその人が欲しがりそうな商品のクーポンを載せる(客が商品を購入した段階でそれまでの顧客データを参照し、その人が次に欲しがりそうな商品を超高速でリストアップする)という例があったが、他にもできそうな事は多い。僕が思いつくシーンは、テスト問題の正誤によって次に解くべき問題が瞬時に教えてもらえる教育プログラムなんかだろうか。格ゲーやSTGなどの練習プログラムなんかが組まれたらそれは凄い面白いかもしれない。しかし、これらはとんでもない破壊的イノベーションだ。本来は人間がやっていた仕事を機械がやるようになってしまう可能性を意識せざるを得なくなる。ネオラダイト運動どころの騒ぎでは無くなってしまうのでは…?そうして懸念となったことが、”機械が人間に取って代わる”という脅威を感じさせるという懸念だ。この懸念が、”ワトソン”の名前や外観、そして口調を決定する主要因となった。
ここから派生して、人間と機械の共存についても触れられている。言うまでもないが、機械が人間の仕事を奪ってしまうという懸念に関してだ。書中にこんな節がある。「だが、スマートマシンの目的の一つは、人を雑事から解放し、人にしか楽しめない無数のことをさせてくれることにある。歌う。泳ぐ。恋をする…。それは、自身もしだいに賢くなる種―ヒトという種―に属するものに開かれたチャンスだ。」つまり、仮に機械がヒトの仕事を奪ってしまっても、それは即座に機械がヒトそのものに取って代わることを意味するものではない、と。仕事がなくなったら余暇が増える、それで楽しいことをすればいいじゃないか、ということを言いたいのだ。
この話題は、人間が自分にとって楽しいというものを再発見することに繋がる可能性があるのではないかと僕は思う。現代はプロテスタンティズムに激しく毒されている。「働かざるもの食うべからず」と本気で信じている。否、働かないで食う飯ほど旨いものなど無い。機械は道具だ。人間の生活を彩るバラだ。それでいいじゃないか。社畜などという言葉が跋扈する中、ワトソンはバラを見つけさせてくれる希望になるのじゃないか。ワトソンが僕らを救ってくれる第1歩とならんことを。
「私達はパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。」 ― ウィリアム・モリス